原貫太の国際協力ブログ

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「地球市民」(コスモポリタン)という考え方-アフリカの少年兵と日本の私

この記事を読んでいるあなたは普段、世界で起きている出来事に対して、どれほど関心を持っているだろうか。もしくは持ち続けているだろうか。

 

テレビや新聞でニュースを読む。インターネットで調べ物をする。SNSをチェックする。私たちが生きる昨今の世界は、テクノロジーが発展し、「地球の裏側」の出来事でさえも、瞬時に手に入るようになってきた。

 

世界中で今も続いている内戦や貧困の問題を耳にしたあなたは、どう感じるだろうか。悲しいと思うだろうか。何か自分にできる事をしたいと思うだろうか。それとも、一瞬は「何か」を感じることはあっても、時間が経てば「どこか遠くの世界で起きている出来事」として割り切り、何事も無かったかのように、忙しく生活を送っているだろうか。

 

 

これまで僕は、フィリピン、バングラデシュ、ルワンダ、ウガンダ...と足を運び、「ストリートチルドレン」「児童労働」「物乞い」「孤児」「スラム」「内戦」「HIV/AIDs」「子ども兵」「難民」など、数え切れないほどたくさんの「社会的弱者」と接してきた。

 

そしてただ接するだけではなく、彼らから聴いた話を文字に起こし、日本の人たちに伝える活動をしたり、ニーズに基づいて、支援活動を行ったりしてきた。

 

だからこそ、沢山の人、特に周りの大学生の友人にしばしば訊かれることがある。

 

 

 

"どうして世界の出来事にそこまで関心を抱けるの?"

 

 

簡単なようで、とても難しい質問だ。「如何にして世界で起きている紛争や貧困に対して、日本の人たちの関心を引き出すのか」というのは、問題の根本的解決を目指す援助関係者としては、もしかしたら永遠のテーマかもしれない。

(関連記事:支援と不条理のジレンマ「変わるべきなのは途上国ではなく先進国」

 

 

この質問に対する僕の答えはいくつかあるが、その一つとして「地球市民」という考え方を提示したい。

 

日本人であると共に、地球市民として生きる。

これといった正式な定義は無いものの、「地球市民」とは、「人種や国籍、思想や宗教、文化などに囚われず、平和、環境、人権、貧困などの地球規模の課題の解決に向けて、地球に生きる一人の人間として、日々の生活の中で考え、行動を起こしていく人。」のことを指す。「コスモポリタン」という言葉にも言い換えられるかもしれない。

 

 

僕は日本人だ。そして今、この記事を日本語で読んでいるほとんどの人も同じように、同じ日本人だと思う。

 

ただ、「日本人である」のと同じように、僕はこの「地球市民」という、また別の「アイデンティティ」を持とうと心がけている。

 

最初に書いたが、テクノロジーが進歩し、空間や時間の概念が再編されている今、国境という概念にどれだけの意味があるのだろうか。経済のグローバル化がますます進み、海外との繋がりなしでは日本の生活が考えられなくなった今、国内だけに目を向けているのは「視野」が狭いのではないだろうか。

 

だからこそ、僕は日本国内で起きている出来事だけではなく、「地球の裏側」で起きていること、そしてそれは例えば、紛争、貧困、環境破壊などに対しても、関心を持っている。

 

そしてまた、世界の諸問題を知った時に、そこに対してただ責任を追及したり、悲しみを嘆いたりするのではなく、「自分自身にもその責任の一端があるのではないか」「自分はその出来事とどのように繋がっているのか」「彼ら彼女らを苦しめ『構造的暴力』を産み出す構造に自分が関わってしまっていないか」「自分の足で誰かを踏みつけていないか」…そんなことを、時として考えながら僕は生きている。

 

 

でも、この「地球市民」というアイデンティティを自分の中に持つことは、簡単な事ではない。簡単ではないからこそ、"どうして世界の出来事にそこまで関心を抱けるの?"と訊かれるのだろう。

 

世界の仕組みや、国際協力をする意義を理解すればするほど、いやでも「地球市民」という考え方を知ることになるだろうが、その前提にある、いわばそのための最初の一歩として僕が提示したいのが、「理解」と「自覚」だ。一見ありきたりな言葉ではあるものの、この二つの言葉には、「地球市民」を考えるにあたって重要な要素が含まれている。

 

ある日突然、反政府軍に誘拐されて、軍事訓練を受けさせられたウガンダの子ども兵。なぜ彼らは、最初の任務として家族や友人を殺さなければならないのか。なぜ「子ども兵」と呼ばれる人々は、未だ世界に25万人以上も存在しているのか。

 

なぜこの地球という惑星(ホシ)には、不条理過ぎる現実がこんなにも溢れているのか。

 

23歳の自分には、まだまだ知らないことが山ほどあるからこそ、自分が生きている世界のことを知り、そして「理解」したい。毎日の勉強や、世界中のニュースに対して高くアンテナを張ることで、社会の流れに敏感になることで、世界に対する自分の「理解」を深めていく。

 

そして同時に、ただ「理解」するだけでなく、自分の足元にも目を向けてみる。自分が今置かれている環境や立場に対して、「自覚」を持つ。

 

戦場で人を殺めることに従事する(従事させられている)アフリカの子ども兵がいる一方で、自分は早稲田大学という恵まれた環境で毎日勉強することが出来る。友達とくだらない話に花を咲かせながら、腹一杯美味しいご飯を食べることが出来る。家族や恋人と幸せな日々を送ることが出来る。

 

 

そして、この「理解」と「自覚」は、お互いに影響を及ぼし合うと思う。他者に対する「理解」が、自己に対する「自覚」を生む。また、自己に対する「自覚」が、他者に対する「理解」を生む。

 

この「理解」と「自覚」を同時に持った時、その両者の気の遠くなるような乖離こそが、私に「地球市民」という意識を喚起させる、最初の一歩であるように思う。

 

 

昨年4月に熊本で地震が発生したすぐ後、アメリカの友人のみならず、バングラデシュやウガンダの友人からも、「お前の町は大丈夫か」「友達は大丈夫か」などとFacebookで連絡を貰った。

 

遠く離れた国の人々が日本のことを気にかけてくれている。その一方で、私たちは普段どれだけ他国の出来事に関心を持ち生活しているだろうか。

 

 

地球市民、この言葉の意味を、改めて考えさせられている。